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東京高等裁判所 平成8年(ネ)5305号 判決 1998年1月20日

主文

一  原判決中、控訴人の請求を一〇〇〇万円及びこれに対する平成七年七月二六日から完済に至るまで年五分の割合による金員を超えて棄却した部分を取り消す。

二  被控訴人は、控訴人に対し、一〇〇万円及びこれに対する平成七年七月二六日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

三  控訴人のその余の控訴を棄却する。

四  訴訟費用は、第一、二審を通じてこれを一〇分し、その一を被控訴人の、その余の控訴人の各負担とする。

五  この判決は、主文二の項について仮に執行することができる。

理由

【事実及び理由】

第一  申立て

一  控訴人

1 原判決を取り消す。

2 被控訴人は、控訴人に対し、一一〇〇万円及びこれに対する平成七年七月二六日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

3 訴訟費用は、第一、二審とも、被控訴人の負担とする。

4 仮執行の宣言

二  被控訴人

1 本件控訴を棄却する。

2 控訴費用は控訴人の負担とする。

第二  事案の概要

一  本件は、控訴人が、被控訴人を債権者、控訴人を債務者とし、控訴人が被控訴人の養母の亡乙山松子(以下「松子」という。)及び被控訴人を代理して売却した不動産の売却代金の預り金返還請求権を被保全債権とする東京地方裁判所八王子支部平成二年(ヨ)第四八四号不動産仮差押事件(以下「本件保全事件」という。)の申請ないしその本案訴訟である被控訴人を原告、控訴人を被告とする東京地方裁判所同年(ワ)第一二三〇九号預り金返還等請求事件(以下「本件本案事件」という。)の提起が控訴人に対する不法行為を構成すると主張して、被控訴人に対し、本件保全事件及び本件本案事件に応ずるために支出を余儀なくされたという弁護士費用八三七万円、本件保全事件の申請及び本件本案訴訟の提起による慰謝料三〇〇万円の内金二六三万円、以上合計一一〇〇万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である平成七年七月二六日から完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求めている事案である。

二  前提となる事実関係

本訴請求に対する判断の前提となる事実関係は、概略、次のとおりであって、いずれも当事者間に争いがないか、あるいは、弁論の全趣旨により容易に認定することができ、この認定を妨げる証拠はない。

1 松子の夫で、被控訴人の養父であった乙山竹夫(以下「竹夫」という。)は、昭和五四年一二月四日に死亡した。

2 松子及び被控訴人は、亡竹夫の遺産を相続したが、相続税の支払に充てるため、その相続した多摩市大字乞田所在の土地建物(以下「本件不動産」という。)を売却することとし、その売却及び相続税の支払を亡竹夫がかねてその所有不動産の管理などを委任していた控訴人に委任することになった。

3 右委任を受けた控訴人は、昭和五五年から昭和五七年ころにかけて、本件不動産を売却して松子及び被控訴人の相続税を納付した。

4 松子は、その後、昭和六三年九月一五日に死亡した。

5 被控訴人は、平成二年一〇月二日、それまでの控訴人との折衝の経緯についてはともかく、控訴人が本件不動産の売却代金(以下「本件売却代金」という。)の残余として五二四九万五〇〇〇円を預かっているとして、当該預り金返還請求権を被保全債権とする本件保全事件を申請し、仮差押決定を受け、控訴人所有の不動産に対する仮差押えの執行をした。

6 次いで、被控訴人は、本件本案訴訟を提起し、控訴人は、これに応訴するため、本件訴訟代理人に本件本案事件の訴訟委任をした。

7 本件本案事件について、平成七年一月三〇日、被控訴人の請求を棄却する旨の第一審判決が言い渡され、同判決は、控訴期間の経過により確定した。

8 控訴人は、被控訴人が、右第一審判決が確定した後、本件保全事件を取り下げず、仮差押えの執行の取消しの申立てもしなかったため、本件訴訟代理人に委任して仮差押えの執行の取消しを申し立て、その取消しを受けた。

三  本件訴訟における争点

本件訴訟における基本的な争点は、被控訴人の本件保全事件の申請ないし本件本案事件の提起が控訴人に対する不法行為を構成するものであるか否かであるところ、この点に関する当事者双方の主張は、その不法行為性を否定して控訴人の請求を棄却した原判決に対する不服及び控訴人の被ったという損害に関する主張を含め、概略、次のとおりである。

(控訴人)

1 被控訴人は、控訴人に本件売却代金の使途について説明を求めたのに、控訴人から十分な説明を受けられなかったため、本件保全事件を申請し、本件本案事件を提起したのであって、その申請ないし提起について被控訴人に過失はないと主張する。しかし、控訴人が松子及び被控訴人から本件不動産の売却及び相続税の支払について委任を受けた事務は、昭和五七年に相続税の支払を完了した時点で終了していたのであって、控訴人が受任者として被控訴人主張の説明義務を負っていたとしても、被控訴人が説明を求めたのは、控訴人の受任事務が終了してから八年も経過した平成二年であって、その時点では、被控訴人主張の説明義務も消滅していたのである。

被控訴人は、平成二年になって控訴人に説明を求めたことの不自然さを正当化しようとして、それまでは控訴人を信頼していたため説明を求めることはなかったが、昭和六三年三月ころ、松子の自宅で以前整理されていた書類の一部がなくなっていたこと、税理士の作成した納税関係書類が破いて屑篭に捨てられていたことを発見したため控訴人に疑念を持ったと主張する。しかし、松子の自宅で以前整理された書類を見たというのであるから、その時点で本件売却代金の使途は分かったはずであるのに、その時点で被控訴人に説明を求めなかったということは、その書類に疑義がなかったからである。昭和六三年三月ころ、その書類の一部がなくなっていることを発見したとしても、それ以前に疑義がなかった以上、昭和六三年三月ころになって疑念を持ったというのは不自然である。しかも、その当時、養母の松子は存命中であったのであるから、まず松子に問い質すのが当然であるのに、そのような形跡がないばかりでなく、また、当時の担当税理士から入手した納税関係書類の控えを見て本件売却代金に多額の残余があると信じたというのであれば、直ちに控訴人に説明を求めるのが普通であるのに、そのような形跡もないのであって、昭和六三年三月ころに控訴人に疑念を持ったというには、その後の被控訴人の行動は不自然極まりない。

本件売却代金の使途について、松子は、控訴人から逐一報告を受け了解していたのであって、松子が納税関係書類を破いて屑篭に捨てていたとしても、そのことは、少なくとも控訴人がそのような書類を松子に交付していたことを物語るものである。控訴人は、被控訴人に対しても、本件不動産を売却した都度、必要な報告をし、しかも、被控訴人は、控訴人から引渡しを受けた本件売却代金を現に自らの養豚事業、自宅の改築などのために費消していたのであって、その当時の記憶を喚起するよう注意をすれば、控訴人に敢えて説明を求める必要もなかったのに、そのような注意もしないで、漫然と本件保全事件を申請し、本件本案事件を提起したのであって、その申請ないし提起について、被控訴人に過失があることは明らかである。

2 原判決は、被控訴人が、本件売却代金の一部について、控訴人から返還を受けていないのではないかとの疑念を持ったと認定しているが、本件本案事件の確定判決によれば、被控訴人が疑念を持った旨の供述は不自然であるとして排斥されているのであるから、本件訴訟において、被控訴人が控訴人から本件売却代金の一部について返還を受けていないのではないかとの疑念を持ったと認定することは許されないというべきである。さらに、原判決は、被控訴人が控訴人に対して本件売却代金の使途について説明を求めたのに、控訴人から無視されたとか、控訴人に照会通知書を出したのに、控訴人から無視されたとか認定しているが、その認定も、被控訴人が疑念を持ったとの認定を前提とするものであって、誤っているといわなければならない。

原判決は、右の誤った認定から、被控訴人は、控訴人から本件売却代金の使途について納得の行く説明が得られなかったので、本件保全事件ないし本件本案事件のための訴訟活動に着手したと認定しているが、本件本案事件の確定判決によれば、被控訴人は、その訴訟活動に着手する以前、十分資料に接する機会があったと認定されているのである。

被控訴人は、前記のとおり、自らの記憶を喚起すれば、控訴人から引渡しを受けた本件売却代金を自らの養豚事業、自宅の改築などのために費消していたことを思い出したはずであるのに、控訴人の受任事務が終了してから一〇年近く経過した後、控訴人に責任を転嫁しようとして、本件保全事件の申請ないし本件本案事件の提起に至っているのであって、そのような本件保全事件の申請ないし本件本案事件の提起が控訴人に対する不法行為を構成するものであることは明らかである。

3 被控訴人は、本件保全事件では、控訴人に対して五二四九万五〇〇〇円の預り金返還請求権があるとして仮差押えを申請し、本件本案事件では、請求を拡張しているが、その前提となる本件売却代金は、前記のとおり、被控訴人が控訴人から引渡しを受けた後に自ら費消しているのである。被控訴人は、本件保全事件の被保全債権について、自らその存否について疑いを持ち、調査すべきものであったのに、控訴人とは関係がない不動産についても、その売却代金を本件保全事件の被保全債権に加えているように、その被保全債権が存在しないにもかかわらず、漫然と本件保全事件を申請したことは明らかであるから、本件本案事件の提起について、被控訴人に過失が認められないとしても、少なくとも本件保全事件の申請については、被控訴人に過失が認められるべきものである。

4 控訴人が被控訴人に対して賠償を求める弁護士費用八三七万円の内訳は次のとおりである。

(一) 本件本案事件の応訴に要した弁護士費用 七三七万円

(二) 本件保全事件に係る執行の取消しに要した弁護士費用 一〇〇万円

(被控訴人)

1 被控訴人は、控訴人を信頼していたため、本件不動産の売却及び相続税の支払という委任事務が終了した以降も、本件売却代金の使途について説明を求めるようなことはなかったが、昭和六三年三月ころ、松子の自宅において、以前整理されていた書類の一部がなくなっていたこと、税理士の作成した納税関係書類が破いて屑篭に捨ててあったことを発見したため、控訴人に疑念を持つようになり、同年四月には、当時の担当税理士から納税関係書類の控えを入手し、これによって、本件売却代金に多額の残余があることを知ったのである。

被控訴人は、その後、松子の入院ないし死亡という事態を迎えたため、松子の一周忌を終えてから、控訴人に本件売却代金の使途について説明を求め、本件訴訟代理人に事件を委任し、控訴人訴訟代理人とも折衝して、本件保全事件の申請ないし本件本案事件の提起に至ったのであるが、その時間的な経過に控訴人主張のように不自然なところは少しもない。

控訴人は、平成二年の時点では、控訴人の被控訴人に対する説明義務は消滅していたと主張するが、被控訴人は、本件売却代金の使途について説明を求めても、控訴人から、その所持していた資料も示されることもなく、疑わしいことはないなどと一蹴され、十分な説明を受けられなかったのであるから、被控訴人が本件保全事件の申請ないし本件本案事件の提起に至ったのは当然であって、その後、本件本案事件において控訴人から資料が示されていることに鑑みても、本件保全事件の申請ないし本件本案事件の提起について、被控訴人には過失がなかったというべきである。

2 本件本案事件の確定判決において被控訴人の疑念が否定されたのは、控訴人が松子ないし被控訴人の名義で開設した口座が控訴人の松子ないし被控訴人に対する本件売却代金の引渡しのために開設されたことを知らなかった旨の被控訴人の主張を排斥するためであって、本件保全事件の申請ないし本件本案事件の提起それ自体が不自然であることにはならない。

控訴人は、被控訴人が本件売却代金の使途について説明を求めたのに対して、十分な説明をしていなかったのであって、仮に被控訴人が疑念を抱いたことが控訴人主張のように不自然であったとしても、そのことから控訴人の被控訴人に対する対応それ自体が十分であったということにはならない。

控訴人は、被控訴人が本件本案事件を提起している以上、それ以前に被控訴人の許に資料があったはずであると主張するが、本件本案事件を提起する以前には、そのような資料は全くなかったのである。

3 被控訴人は、控訴人が被控訴人のために金員を支出していたことは知っていたが、その支出に関する領収書は控訴人の許にあったため、その支出した金額がいくらであったかも知ることができず、そもそも竹夫がその生前に控訴人に預けていた金員から支出されていたとも考えていたのである。控訴人が本件売却代金から被控訴人のために支出していたとしても、控訴人は、その旨の説明を被控訴人に十分していなかったのであるから、被控訴人の本件保全事件の申請ないし本件本案事件の提起はやむを得ないものであって、被控訴人に過失はないというべきである。

4 控訴人は、本訴請求に係る弁護士費用八三七万円の内金一〇〇万円は、本件保全事件の執行の取消しに要した弁護士費用であると主張するが、本件本案事件の第一審判決が確定した後の仮差押えの執行の取消しは、控訴人が単独で、かつ、容易に行うことができるものであるから、被控訴人が本件保全事件を取り下げ、仮差押えの執行の取消しの申立てをしなかったからといって、控訴人に対する不法行為を構成するものではなく、被控訴人が控訴人に対して右弁護士費用を賠償すべき理由はない。

第三  当裁判所の判断

一  本件本案事件の提起と不法行為の成否

1 控訴人は、本件本案事件の提起が控訴人に対する不法行為を構成すると主張するところ、本件本案事件について、被控訴人の敗訴判決が確定していることは、前説示のとおりであるが、民事訴訟を提起した者が敗訴の確定判決を受けた場合において、その訴えの提起を相手方に対する違法な行為ということができるのは、当該訴訟において提訴者の主張した権利又は法律関係が事実的、法律的根拠を欠くものであるうえ、提訴者が、そのことを知りながら又は通常人であれば容易にそのことを知ることができたのに、敢えて訴えを提起したなど、訴えの提起が裁判制度の趣旨、目的に照らして著しく相当性を欠くと認められるときに限られるべきものである(最判昭和六三年一月二六日民集四二巻一号一頁参照)。

2 そこで、以下、右見地から被控訴人の本件本案事件の提起が控訴人に対する不法行為を構成するものであるか否かについて検討する。

(一) 控訴人は、松子及び被控訴人から本件不動産の売却及び相続税の支払について委任を受けたが、昭和五七年ころまでには、当該受任事務を終了していたことは、前説示のとおりであるところ、被控訴人は、昭和六三年三月ころ、松子の自宅において、以前整理されていた書類の一部がなくなっていたこと、税理士の作成した納税関係書類が破いて屑篭に捨ててあったことを発見したため、控訴人に疑念を持つようになり、同年四月には、当時の担当税理士から納税関係書類の控えを入手し、これによって、本件売却代金に多額の残余があることを知ったなどと主張する。

しかしながら、本件売却代金に控訴人主張のような多額の残余があったことを知ったとの主張は、本件本案判決でもって、本件売却代金の残余を控訴人の被控訴人に対する預り金であると主張してその返還を求めた請求が棄却されていることに照らして、採用する余地がない。

さらに、右主張の前提として、松子の自宅において、以前整理されていた書類の一部がなくなっていたほか、税理士の作成した納税関係書類が破いて屑篭に捨ててあったのを発見したというのが事実であったとしても、それは、松子の所為によるものと判断するのが普通であって、控訴人が松子の自宅から書類の一部を奪い取ったとか、松子の自宅に赴いて納税関係書類を破って屑篭に捨てたと認めるに足りる証拠がない本件においては、被控訴人がそのことを理由に控訴人の本件売却代金の使途に疑念を持つということも不可解で、しかも、その疑念を持ったとしても、まずもって松子に書類の一部がなくなっていること及び納税関係書類を破り捨てたことの理由を問い質すのが普通であるのに、そのような形跡もないのであって、被控訴人が、昭和六三年三月ころ、本件売却代金の使途に疑念を持ったという主張それ自体も、直ちに採用するのが困難であるといわなければならない。

(二) しかるところ、《証拠略》を総合すれば、本件売却代金は、松子ないし被控訴人に引き渡されているうえ、現に被控訴人の養豚事業、自宅の改築などのために費消されていたと認められるのであるから、売却代金の使途に疑念を持ったという被控訴人の主張は、被控訴人の記憶違いであるか、あるいは、事実を歪曲した主張であると受け取られても仕方のないことであるというほかはなく、控訴人が被控訴人の本件本案事件の提起をもって控訴人に対する不法行為を構成するものであると主張することもあながち理解し得ないものではない。

(三) しかしながら、被控訴人の陳述書である甲第四号証、別件訴訟の本人尋問調書である甲第五号証に照らしても、被控訴人が事実を歪曲して本件本案事件を提起したとまでは認めることはできず、被控訴人がその敗訴に至った本件本案事件を提起したのは、被控訴人の記憶に不確かなところがあったからであると認め得るにとどまるが、本件本案事件は、被控訴人と控訴人との間の委任契約に基づく事務処理に起因する紛争であって、委任者の被控訴人が、その記憶に不確かなところがあるため、受任者の控訴人に対して当該事務処理の顛末について説明を求めること自体は不自然ではなく、当該事務処理が終了してから八年近くが経過していたとしても、委任者の受任者に対する委任契約に基づく引渡請求権などの消滅時効が完成し、かつ、受任者において消滅時効を援用するのが必至であることが明らかであるような場合は格別、委任者が、受任者の説明が十分でないとして、委任契約に基づく引渡請求権の行使として裁判を提起することを違法というべきものとは解されない。けだし、法的紛争の当事者が当該紛争の終局的解決を裁判所に求め得るということは、法治国家の根幹に係る重要な事柄であって、裁判を受ける権利は最大限に尊重されなければならず、訴えの提起が不法行為を構成するか否かを判断するに当たっては、苟も裁判制度の利用を不当に制限する結果とならないよう慎重な配慮が必要であって、法的紛争の解決を求めて訴えを提起することは、原則として正当な行為であり、提訴者が敗訴の確定判決を受けたという一事によって、直ちに当該訴えの提起をもって違法ということはできないからである。訴えを提起する際に、提訴者において、自己の主張しようとする権利等の事実的、法律的根拠について、高度の調査、検討が要請されると解するならば、裁判制度の自由な利用が著しく阻害される結果となって、妥当ではなく、本件においても、被控訴人において、控訴人が本件売却代金の残余を預かっているとして、その返還を求める本件本案事件を提起したことは、本件売却代金の使途を解明するためには必要なことであったのであって、前説示のとおり、被控訴人の記憶が不確かであったことに起因するものであり、そして、被控訴人が敗訴の確定判決を受けるに至ったとしても、裁判制度の利用として是認し得ないものではないといわなければならない。

3 したがって、本件本案事件の提起が不法行為を構成するとまでいうのは困難であって、この点に関する控訴人の主張は、採用することができない。

二  本件保全事件の申請と不法行為の成否

1 本件本案事件は、本件保全事件の本案訴訟であるが、本件本案事件については、被控訴人敗訴の第一審判決が確定していることは、前説示のとおりであるところ、一般に、保全処分が保全異議もしくは保全抗告によって取り消され、あるいは、本案訴訟において原告敗訴の判決が言い渡され、その判決が確定した場合には、他に特段の事情のない限り、保全処分の申請人である原告に過失があったものと推認するのが相当であるが、原告において、その保全処分の申請という挙に出るについて相当な事由があったと認められる場合には、保全処分が取り消されたという一事によって原告に過失があったということはできず(最判昭和四三年一二月二四日民集二二巻一三号三四二八頁参照)、右の場合には、保全処分の本案訴訟において原告敗訴の判決が確定したとしても、その一事をもって、直ちに原告に過失が存すると断ずることはできないものといわなければならない(最判平成二年一月二二日裁判集民事一五九号一二一頁参照)。

2 そこで、以下、右見地から被控訴人の本件保全事件の申請が控訴人に対する不法行為を構成するものであるか否かについて検討する。

(一) 本件本案事件は、被控訴人が、その不確かな記憶から、控訴人が本件売却代金の残余を預かっているとして提起し、敗訴の確定判決を受けるに至ったものであるが、法治国家の根幹である裁判制度の利用という見地からみて、被控訴人がその敗訴した本件本案事件を提起したことをもって控訴人に対する不法行為を構成するとまでいえないことは、前説示のとおりである。

(二) しかしながら、本案訴訟の提起それ自体が是認し得るものであったとしても、保全事件の申請が当然に是認し得るというものではなく、保全事件については、その制度的な構造ないし性格から、専ら申請人の一方的な主張及び疎明に基づいて発令され、執行されるものであるから、その申請に当たって、申請人の主張及び疎明で被保全債権の存在を明らかにしたとしても、本案訴訟で被保全債権が否定されるに至り、しかも、その被保全債権が否定された理由が申請人の主張及び疎明それ自体が根拠のないものであったという場合には、本案訴訟の提起が是認されても、保全事件の申請までする相当の事由はなかったというほかはなく、そのような保全事件の申請については、その申請人に過失があると推定されるべきところ、本件保全事件においては、その被保全債権である被控訴人の控訴人に対する預り金返還請求権の存否は、被控訴人の認識に左右されるものであったこと、控訴人の受任事務が終了してから八年近く経過していたうえ、専ら控訴人との折衝に当たったと窺われる被控訴人の養母の松子は、その存命中、控訴人から書類の交付を受けていたのに、控訴人に対して本件売却代金の使途について疑念があるなどとしてその説明を求めた形跡はないこと、被控訴人は、松子の存命中、以前整理されていた書類の一部がなくなっていたほか、税理士の作成した納税関係書類が破いて屑篭に捨ててあったのを発見したというが、前説示のとおり、そのことから被控訴人が本件売却代金の使途に疑念を抱いたという被控訴人の主張を直ちに採用するのは困難であることに、前掲甲第四及び第五号証を総合しても、被控訴人が、その不確かな記憶から、本件本案事件を提起したこと自体は、前説示のとおり、責められないとしても、本件保全事件を申請するという挙に出たことについては、相当な事由があったとは認められず、他に本件本案判決の敗訴判決が確定したことにより本件保全事件の申請について被控訴人に過失があったとの推定を覆すに足りる証拠はない。

3 したがって、本件保全事件の申請は、控訴人に対する不法行為を構成するものといわなければならないから、被控訴人は、控訴人が本件保全事件の申請によって被った損害を賠償すべきものである。

4 そこで、次に、本件保全事件の申請によって控訴人が被った損害の額について検討する。

(一) 控訴人は、本件本案事件の応訴に要する弁護士費用として七三八万円を支出したと主張するが、本件本案事件の提起それ自体は、控訴人に対する不法行為を構成するものではないから、その応訴に要したという弁護士費用の賠償を求め得る余地はない。

(二) 控訴人は、被控訴人が、本件本案事件について被控訴人敗訴の第一審判決を受け、当該判決が確定したのに、本件保全事件を取り下げず、仮差押えの執行の取消しの申立てもしなかったので、本件訴訟代理人に仮差押えの執行の取消しを委任し、その費用として一〇〇万円を支払ったと主張して、その賠償を求めるが、被控訴人の本件保全事件の申請が控訴人に対する不法行為を構成するものである以上、控訴人において、被控訴人がした仮差押えの執行の取消しの申立てを弁護士に委任したことも、被控訴人の違法な本件保全事件の申請に対する対応として是認し得る範囲のものであるから、被控訴人は、控訴人が仮差押えの執行の取消しの委任に要した費用のうちの相当額を賠償すべきところ、本件においては、右弁護士費用は、三〇万円をもって相当とするというべきである。

(三) 控訴人は、さらに、被控訴人に対して慰謝料の支払も求めるところ、被控訴人から本件本案事件を提起されたこと自体は甘受すべきものであったとはいえ、本件保全事件の申請を受け、その所有する不動産に対して仮差押えの執行を受けたことによる控訴人の精神的苦痛は想像するに難くはなく、本件においては、その精神的苦痛を慰謝するに足りる金員は、七〇万円をもって相当とするというべきである。

5 右説示したところよれば、控訴人が被控訴人に対して損害賠償を求める本訴請求は、前認定の被控訴人の違法な本件保全事件の申請によって控訴人が被った前記4(二)及び(三)の損害合計一〇〇万円及びこれに対する本件訴状送達の日の翌日であることが記録上明らかな平成七年七月二六日から完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから、これを認容すべきものであるが、その余は、失当として、棄却すべきものであるといわなければならない。

三  よって、原判決中、控訴人の本訴請求を一〇〇〇万円及びこれに対する平成七年七月二六日から完済に至るまで年五分の割合による金員を超えて棄却した部分を取り消し、控訴人の右部分に係る本訴請求を認容することとし、控訴人のその余の控訴を棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法六七条、六一条、六四条を、仮執行の宣言について同法二五九条を各適用して、主文のとおり判決する。

(口頭弁論終結日 平成九年六月二六日)

(裁判長裁判官 清永利亮 裁判官 小林 亘 裁判官 滝沢 孝臣)

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